再放送を見た。
改めて見ると、このアニメって本当に面白かったんだなぁと感じる。
今見ても普通に面白いのだ。
テンポも抜群で発想もゆたか。
ただし、それは原作者お陰というより、時代性と偶発性と様々な才能に恵まれた点が大きいと思う。
アニメ版による押井さんや南家さんといった才能の恩恵は極めて大きいだろう。
それがこの作品を広めたと思える。
この作品は天恵を得たのだ。
原作は今読むと単なるラブコメに過ぎない。
彼女の以後の作品を見てもそれは明らかである。
馬鹿な男の子と可愛い女の子の狂宴である。
祭りが終われば何も残らない。
思想背景もなんもないなと改めて感じた。
考えてみると当然だ。
学生が描いた作品であると当時に、彼女自身の背景にそうしたものは感じられない。
そこが手塚治虫さんや石ノ森章太郎さん、藤子不二雄さんらと決定的な深みの差になっている。
ある意味では新時代の漫画家だったのだろう。
資本主義の申し子というか。
それはそれで時代を背負った面白さがある。
祭りで意気投合した相手と暗がりで一夜の熱情にきょうし終わったら他人顔。
この作品はそうだったように思う。
実に潔いではないか。
そうした作品も面白い。
そういう視点で見ると今の作品は内容のテンポは皆無だ。
やたら大袈裟で増長な割にこれといった思想背景もなければ祭りの狂乱もない。
そこに時代性を感じる。
もっと色々あっていいと思うだけどと思う。
それが許された時代に思う。
右向け右!の時代ではないと思う。
であるが故に困惑するのだろう。
自由とはむしろ大変である。
私はこの作品に自由となんぞか!?
というものを見出して感動していた。
登場人物は実に皆身勝手でそれでいて自由なのだ。
お互いがお互いに言いたいことを声を大にして良い、それで相手を拒否していない。
そこの感動していた。
そのシンボルが、象徴的存在がラムだったに過ぎない。
作者の意図とは異なる視点で見ていた。
あの光景は私が聞いた嘗ての日本人の景色そのものであると今更に思う。
通りであちこで口喧嘩、やおら殴り合いが始まるが、止める者もいるし、喧嘩の流儀を心得ている。
私は無意識に失われた日本人のそうした民族性のありようをもあの作品に見出していたのかもしれない。
何より私の精神に自由がなかったからというのが大きい。
私は道徳や倫理に強く縛られて生きていたからだろう。
親や社会が子にそれを望み、私は綺麗にはまった。
羊達の沈黙である。
鏡を見ていた。
作用反作用の法則である。
人は常に自らの鏡を見出す。
うる星やつら は私にとって自由の象徴なのだ。
今はあの頃より遥かに自由な精神を身につけつつあるように感じる。