日本人の劣化と疲労社会

日本人の劣化

若人が劣化するのは世の常で、私の世代も言われていた。ところが物の本を読んだ時、何の本かは忘れてしまったが、昭和初期の人も大正の人も明治ですら言われていたと知る。つまり、社会が劣化しているから自ずと劣化する。地盤が沈下すれば、上にのっている全てのものは沈下する当然の現象である。この場合は劣化というより、社会の変化、時代性の変化とは捉えらてもいい。精神が軟弱になるのは仕方がない。それだけ平和になった証であり、それは一方の視点は喜ぶべきこともである。なので、大人が若人を捉えて 「最近の若いもんは」 というのは視点そのものが、自分を是としてものであり、これは完全に我田引水の投げかけである。言うなれば、「それを言うならあんたの爺様からしたらそっちもそうじゃん」 ってだけである。実際聞いたことがあるが、90歳の老人が、普段しゃちほこばっている大人に向かって、「軟弱だねぇお前は」 と言われて気まずそうな顔をしている場に遭遇したことが何度かある。なので、気にすることはない。問題はそこにはない。

大人の劣化

現代の問題は大人の劣化だ。嘗て、大人はよくも悪くも仕上がっているので変化がない。自分の時代性を背負ったまま生きている。ところが、現代の大人は現代の時代性を帯びて劣化している点にある。先述したように地盤が沈下すれば当然揃って沈下するものであるが、大人というのは多少なりとも世間を見てきて知識も僅かばかりの教養もあり経験を積んでいるから自らを或る程度は客観的に見て、沈下した部分から切り離すことが可能であった。ところが、若人より時代性をモロにうけ、盛大に沈下している。

昨今各地で起きる大人達の問題や、日常でみる大人達の劣化はこれまでの時代には信じられないほどのものである。例えば、ひと様が主宰する展示会に自由意志で入った爺様。無料で入って観賞させてもらえるだけでも本来はありがたいものだ。やる側は大変なのである。それは社会に出れば自ずとわかるはずである。なのに、やれなんだかんだと自分視点でモノを言い、挙句に暴れた挙句配布物を強奪していく。もうこれは世紀末の様相である。これが劣化と言わずしてなんと言うか。また、健康で意気揚々とし、さしてい爺様でもないのに電車で若者が優先席に座っているだけで、「ここは優先席だ!どけ!」と罵倒する。ジジババ。いやいやお前さん、言葉の意味を用途の意図を履き違えてる。優先席ってのは弱者の為に用意された席ですぜ。昔は老人はか弱い存在だった。若人が元気だったのでそれだけの落差があった。女性もそうだ。子供も。故に優先なのだが、老人=弱い は限りなく崩壊している。

大人と若人の反比例曲線

働いている老人はつかれているだろうが、傍若無人になる老人の多くは働いていない。その上で自分の好きなことだけを日々しており無理なんてしない。まだ食料に栄養価が高い時代の人間なので若人よりある部分では身体が仕上がってろい元気である。ご存知かと思うが、現在の野菜類等は栄養価が減っている。1950年頃と比べ、せいぜい1/3程度らしい。世間で目にする栄養票は今の実測値じゃない。概ね過去の実測値を使っている。それに対して今の若人は地表核実験の影響から何%かの遺伝子は傷んでいる世代の子供だ。一度傷んだ遺伝子は修復しない。そして傷んだ遺伝子はそのまま受け継がれ更に崩壊する。所謂被爆第一世代より第三世代の方がトラブルが多い件だ。既に世界のかなりの国で精子の劣化が叫ばれているが、現実問題自然分娩による出産が困難になっていると聞く。日本も例外ではない。それどころから今後は自然分娩による出産はほとんど不可能とさえ言われている。その上で、化学的に合成されて添加物を日々口にしている為に細胞が傷つき、常にダメージをおっている。これまたジャンクフードがウマイから困る。当然ながら更に傷つく。更に、現代の日本人はローマ時代の奴隷よりも忙しい。世界で最も睡眠不足になっている国民は日本であり、異常事態と言われている。夜遅くまで起き、朝早く出て、奴隷並か奴隷以上に働き、覚えることが多く、身体も頭も休まることを知らない。早い話、疲れている。疲れきっているのが現代の若者である。

老人より弱っていることになる。私は通勤時代に顔面蒼白な小学2年生ぐらいの男の子が、満員電車のドアが開くと同時に棒のように倒れたのを目撃したことがある。しかも誰も立ち止まらない。一人だけ若いOLさんが駆け寄り 「大丈夫」 と声をかけ、身体を起こしたが全く反応がない。これも一つの例だ。ある本では若者がウンコ座りするようになったのは本当に疲れているからではないだろうか?という視点で本が書かれてあった。時代が進むと同時に今ではウンコ座りすら出来なくなり地べたに座る。これはポーズでやっている部分も或る程度あろうが、本質的には そうせざるを得ないほど疲れている というのが本筋ではなかろうかと書かれいた。これは同意である。

本来人間は気勢があればずっと立っているし動くものである、更に言えば駈けずり回る。ここまで書いて察しが言い方は思い浮かべたことと思うが 男の子 がそうだ。女の子も小さうちはそうだが、男の子はかなり長い間そういう状態になる。また併記すると心象を悪くするかもしれないが、他の親しい動物で例えれは犬などはその典型だ。生物学的に言えば、エネルギーが有り余っている生物は自ずと運動が活発になるということであり自然現象である。つまり本人の意思によらず、エネルギーが活発な生物は動いてしまうのだ。エネルギーが失われると同時に動きが緩慢になり、最後には動かなくなる。それが死である。つまり、今の若者は、動かないのではなく動くだけのエネルギーがないのだ。

ゲームと若者、そしてそれを見る大人

うちの甥も類にもれずゲーム好きだが、元気な頃はゲームよりスポーツに目がいっていた。元気を失うと平行するかのようにゲームに目がいくようになる。前述したように、元気があれば落ち着いてゲームなんてしている場合じゃないので(意味もなく動くのは生理的欲求だから、精子がたまると抜きたくなるのと同じ、お腹が減ると食べたくなるのと同じ)自ずと動いて楽しいことをしようと人はする。私は予てより ゲーム という視点で人がどう判断するか見てきた部分がある。ゲームをしない大人は九分九厘ゲームは 無駄 だと言う。それは間違ってはいない。ゲームとは 娯楽 なので人生の主目的ではない。娯楽を主目的にした場合、昔で言う 遊び人 になるわけだが、それでは社会生活に支障を来す場合が多く、主目的になりえない。また娯楽というのは余暇であり、その字のごとくそもそもが主目的ではないのだ。主目的にするにはゲームを開発する側になって初めて主目的になる。プレイヤーであればゲーム開発に携わるテスターになってはじめて主目的にたりえる。

世の中に必要の無いものはないと感じる。必要悪という言葉があるが、ようは必要なのだ。ゲームも同じだ。私はそう視点を替え、現実問題もう自らはゲームは飽きていたのだが(驚いたことに一生飽きないと思っていたゲームに内心かなり冷めている)、寧ろ積極的にゲームに関わろうとした結果色々と見えてきた気がする。多くのゲームに興じる人は、一言で言えば元気がない。もっと言えば活力がないのだ。私もそうだ。運動の”う”の字もしていない。出来ないといってもいい。嘗ては、文武両道を標榜し、元々格闘技が好きなので、剣道、柔道、合気道とカジっては止めを繰り返し、サッカーやテニスもかじったが続かなかった。疲れるのだ。合気道あたりは老人も多いのだが稽古場に行くまでに疲れてしまう。

甥を見てて思うのだが疲れている。親は気づいていない。気のせいだと言うが明らかに疲れている。ゲームに目が向いている時点で肉体に活力が失われている証でもある。勿論、少々遊ぶのは活力がある人でもやるが何時間も毎日やるのは最早余暇ではない。仕事といっていい。

ゲームの利点

大人はゲームの悪さばかり視点をき、ゲームを擁護する側も同じだが、どれも的外れに聞こえる。ゲームには利点がある。脳を一時的に目線をそらさせることが出来る。凝り固まった脳は、放っておくとどんどん固まっていく。これが思索の視野狭窄だが、この際にゲーム等をやると一時的に問題点から意識がそらされ開放的になる。そうすると脳が疲労から或る程度拡幅するのだ。これは私の親戚にも医者が何人かいるが、存外医療関係者にゲーマーは多い。彼らは立場上信用を失いかねないので言わないが。これは何も医師に限らず役者やタレント、芸人にゲーマーが多い理由と同意を思っている。彼は一様に責任が重い。一つ一つの物事に極度に集中する必要がある。こうした脳の使い方は、私の造語だが ”脳力” を極端に消耗する。そして、同じ筋肉ばかり使っていると乳酸がたまり筋肉が十分に括約しないように、脳も全く同じ現象が起きる。つまり、一つの集中点から意識がそらせなくなり、より疲労するというスパイラルに入る。これを気に病む人は うつ病 を罹患していく。どちらも疲弊している点では同じだ。

ゲームは脳を一時的にそうした凝り固まった状態から開放するので実は気晴らしにはいい。もっと効率がいいのは、運動だ。身体を動かすことで脳は運動分野に移行するので記憶や思考力を司る分野が強制的に休むことになる。ただし、現代人の多くは圧倒的に疲れているので先述したように活力の衰えから運動へと移行出来ない。その点、ゲームはすぐに初められ脳疲労から開放する手段としては非常に優れいている。ただこの際にやはりある種の脳内麻薬が出て、快感を伴うために中毒化しやすい面は否めない。FPS中毒等をみると完全に心療内科の分野に感じる。そこから抜け出したいのなら治療が必要だろう。そうなると最早全く自らを客観視出来なくなっている。

嘗ての文豪等を鑑みても、不健康であることが多い。そして彼らの多くがノラリクラリと書かないのも十分に書くためにはつめ込まないことが大切でありそれを体感したいたと思われる。あれほどの密度で文章を書くには相当な脳の燃焼が必要だと感じる。するとどうしても脳には乳酸はないが、ある種、筋肉における乳酸のようなものが貯まると考えられる。そこで行き詰まるりそうになると旅行へ出かける。女に走るなどして脳の意識をそらしていたと思われる。運動だ。

それなら本でも読んでろ!って話を投げられることがあるが、それは全くわかっていない証でもある。そういう状態では本は読めない。読書は脳が十分に余裕があって、脳に活力があって出来る行為である。つまり造語した ”脳力” である。読書はかなり脳力を消耗するので、疲れた脳は読書が出来ない。これは体感するところだ。次の段階に来ると、内容がある一方的に流れる映像を見ることが出来なくなる。例えば映画だ。内容を把握しないと面白くない映画等が見れなくなる。これは苦痛になり、脳が 「見るな!これは俺の効く・・・」とストレスを感じさせる。更に次の段階に来ると、内容を理解しなくても構わない映像が見れなくなる。更に進むと映像が動くだけで疲れる。その頃になるとラジオぐらいしか聞けなくなるが、更に進むとラジオも聞けなくなり、音楽になる。その音楽も聞けなくなるとついに映像も見ず、音もなくなる。それを進むと、日常音にストレスを感じるようになる。

ゲームは違う。先程書いたように、ゲームをすることで幾ばくかの快感物質が出るように結果的に訓練された脳の場合、本や映画は見れないほど脳力が低下していてもゲームだけは出来る。それは脳がゲーム=快感と刻印しているからだ。逆に言うとゲームがストレスになる人はいるので、そうした人には効果がないと思われる。人間にとっても最もマズイのは暇になることだ。人は本当にやることがないと実感すると急速にその能力が低下し、死へ向かって準備すると言われている。これはかなり様々な学説で問われており興味深いと同時に、「そうだろうな」と思える。人は本当に、心底暇になると数ヶ月もしないうちに死に至るケースもある。これはあくまで実感なので、頭で「あー暇だー」とか「暇な人、手伝って」とかいう次元ではない。口で 「暇だ」 と言っている内は相当余裕があって、奥さんや彼女に 「別れましょ!」と言われているのと同じだ。危機感はあるがまだ相当に余裕がある。人は無意識に本音の範囲内でしか行動していないが、人は本当に暇になると積極的、消極的死を選ぶような行動へ向かい、本当に別れようと思った奥さんや彼女は黙って下準備をする。そうなったらいずれも挽回は不可能とみていい。口に出るのは、自らが自分に対して 「危機が迫りつつあるよ、まだ余裕あるけどさ」 と言っているようなものだ。その時に、冷静になり客観視するとよさそうだ。

見守るのと放置は違う

ゲームを認める親や大人の多くは単に子供や相手を放置しているだけというのが多い。そう実感する。ゲームに興じる時間が増えている誰かが近くにいて、それが気になるのであれば、彼はそれだけ活力や脳力が失われている証であると考えた方が自然だ。その際、やれなんだかんだと文句を外側の人間が言うのは悪循環しか生まないし、筋違いも甚だしい。それこそ余計なお世話である。かといって、認めているという素振りで放置するのはもっと残酷に思える。本人には打開する力はないだろう。言うなれば病人である。外側の人間は文句を言うのではなく放置するのでもなく、活力が生まれるような食べ物を食べさせたり、楽しそうな場所へ連れて行ったり、誰かを紹介したりするのが全うなやり方だと思う。それが出来ないのであれば、大切な人を見殺しにせざるを得ない自らの忙しい環境を見直すことから始めるべきだろう。それすらも出来ないのなら、何も出来ない自分に対し忸怩たる思いを抱えながら相手に対しては黙して生きるのが全うだと思う。ドヤ顔で理解ある親を装い子供に無遠慮にゲームを与える人は、子供に麻薬を与えて 「大人しくなって丁度いいや」 と言っているのと大差ないような気がする。とても残念だし、その結果が昨今の事件に直結していると思える。悲しいかな、まいた種が育ち回収した事象に思える。

気にならないのなら何も言わないはずだ。それは放置とは違う。人は全ての事象に興味を持ち事にあたるのは不可能である。寧ろ、いかに焦点を絞るかのほうが大切に思う。何せ出来ることはたかだかしれている。親しいは結果的に絞られてくる。荷物は少ない方がいい。大切なものも少ない方が心身への負担は減る。風呂敷は自ら広げく必要はない、結果的に外からもたらされた範囲内でやるのが最も素直な生き方に思う。

日本人は疲れている

日本人は皆疲れているのだ。それは心身共に。お互いになじり合うこともない。興味がないなら黙っていればいい、興味があるのなら言葉で安易に済ますのではなく、脳の目線をそらさせるよう働きかければいい。それが出来ないのであれば、自らを残念に思い、胸に仕舞い込めばいい。それすらも出来ないのなら自らが行き詰っている証なので自らの状況を打開することに視点をおけばいい。今の日本人は疲れている。更に疲れることをする必要はない。「明日から本気だす」という言葉がそこここで冗談として使われるようになって久しいが、これは冗談ではないのだろう。やることが多すぎて、ようは活力が出ないのだ。活力が無いのであれば、今、この瞬間、力が発揮出来ないのは当然である。差し迫った危機があれば自ずと発揮せざるを得ない。そうでないのであればまだ猶予があるのだ。猶予があるうちに謳歌していいと私は思う。いずれその時は来る。その時は否が応でも発揮せざるを得ない。その時まで力を幾ばくかでも温存するというのも手だ。一方で、ひたしたと迫る影を感じつつも、一方では永遠に来ないものと構えゆったりする。この二つの構えで随分変わると思う。何にせよ、お互い疲れているんだ罵倒しあうこともない。

 

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