ゲームをどう捉えるか

ゲームとはなんぞや?

本質的には娯楽である。

それ以上でもそれ以下でもない。

娯楽ということは、人生において主たるものではない。

ということは携わる時間には注意が必要だ。何せ人生における持ち時間というのは存外少ないものだ。

ただゲームをやらない人から「無駄だ!」と大鉈をふるわれると、「ちょっと待った」と言いたくなる。

ゲームは単なる 娯楽 に過ぎないが、娯楽であるが故に救われる気持ちというものもある。

私のある知人は 「ゲームで知り合った人をキッカケに人生が変わった」 という人もいる。

オンラインゲームを通して、将来の伴侶を得た人もいる。

ただし、それは一種の偶然でもある。

恐らくそうした人は、ゲームでなくてもいずれそうなったと思える。

ただ、少なからずその人達はゲームを起点に何がしかの恩恵を受けたのも事実だ。

ゲームに人生を感じるようになったら齢をとった証拠であると思う。

であればゲームとは本来距離を置いたほうが豊かな人生を送れる気がする。

何せ 娯楽 である以上、楽しむことが先行してなんぼなのに、人生を感じている時点で筋が違う。

そう、ゲームはあくまで本質的には 娯楽 であるので本筋があっての存在だ。

しかしゲームが本筋になった人がもいる。先日、退職騒動がニュースにすっぱ抜かれた小島秀夫氏などはそうだろう。

彼はゲームが人生の本道になっている。

ただし、それらは稀有だ。

それでもゲームきっかけで人生が変わることも少ないながらある。

コスプレから服飾に目覚める人。

レイヤーを撮るのが楽しくてプロカメラマンになる人。

イベントのボランティアに携わっているうちにイベント業界に入る人。

歌ってみているうちに、演奏してみてるうちに、ミュージシャンになる人。ヒャダイン氏など典型だろう。

漫画家になる人。

小説家になる人。

プログラマーになる人。

CGアーティストになる人。

ただしこれらは 娯楽 から 本道 を得た例であって、やっぱりゲームは 娯楽 であり刺激の キッカケ でしかない。

最終的には 本道 へ戻るし、戻るべきかもしれない。戻らない、戻れないとしたら ゲーム が本道になっているということになる。

とすれば ゲームプレイヤー として何か即席を残すことに視点を置くのもいいだろう。

圧倒的大多数はゲームは過去の存在になるし、それが健全である。何せゲームは娯楽なのだから。

ただし、その時に多くの人は 時間の無駄 だったと語るだろう。そして子供たちを抑制しようとする。これは誤っている。

何せそれはゲームから 何も見いだせなかった人 の自己擁護だからだ。自分は何も見いだせなかったから息子、娘も何も見いだせない。無駄だ。というのはエピゴーネンだ。つまり自己の価値観の押し付けである。

遊び倒しても キッカケ を得られない人や発露するものが生まれない場合は創造的な職業に携わる才能がないのだろう。でも、ただそれだけの意味だ。卑下する必要もなく、「なるほど」と自得し、であればと次が見えてくるので幸いだ。

ゲームにおいて本筋とはズレる支援機が得意な人がいるように、嘗ての野球少年が裏舞台で野球の世界を支えるように裏舞台に回ることも出来る。そしてそれが、その人にとっての本道となる。それでいいと思う。

ある人が言った。

「娯楽は単なる娯楽だよ。でも10年と係ったなら死ぬまで続けた方がいいね。じゃないと、その10年が本当に無駄になるから」

どんなことであれキッカケというものは楽しさから来る。

大人から見たらクソみたいなことであっても、その大人も恐らくクソみたいなキッカケをさんざん通して今があると思う。

クソをクソのままに終わらせるか、クソの中から何かを見出すか。それはその人の視点と才能の問題だろう。

ゲームをやれやれ!という親もどうなんだろうかと思う。

ゲームをやるな!という親も見方が浅い気がする。

子供がゲームに感心を持っている様子をみて、阻害することなく、促すこともなく、彼、彼女の要請に応じるだけでいいと思う。ゲームをする中でどんな視点が生まれるのか、彼らは何を感じているか、どんなキッカケが与えられるか慎重に見ていればいい。例えば、残酷な刺激はやはり必要ないのだ。これは普遍である。普遍を避けるべきではない。そうしたものは、精神が或る程度据わってからにすべきである。

ゲームをやらせたくなければ、ゲーム以外の様々なイベントや関わりに連れ回せばいい。その上でゲーム以上の楽しみを得られたなら子供はそれに夢中になる。それでもゲームを選んだとしたら、ゲーム以上の刺激を彼らに与えられなかった己の見識と行動力なさ、狭さを思うべきであり、その労力すら割けなければ割けられない自らを反省すべきであろう。その際は甘んじて現実を受け入れるしかない。子供時代にゲームだけしか楽しさがないというのは寂しいものだ。広がりが狭い。ただし、それしかなければ、それはそれで仕方がないことであり、それは子供の責任ではなく与えられなかった親の責任だ。また子供も、いつまでも親の責任しておく必要もない。何せ無いものを与えられてしまった故に、必死なって自ら得ないといけいないからだ。親を攻めている余裕はそれこそないはずだ。

親なら引いた目線で見ているのが一番よい気がする。やるか、やらないかは、本人の問題だ。

ゲームをしてバカになるとしたら、その子はゲームがなくてもバカなんだろうと思う。

また、バカがいけないわけでもない。バカにはバカなりのアプローチがあり、バカにしか出来ないことがある。小賢しい人間は往々にしてバカより厄介である。

結局は才能をどう捉えるか。

変に増長させる必要もなければ、否定する必要もない。触発されたものから何を膨らませられるかその手助けをするのが一番な気がする。

何せゲームは世に溢れている。それを見るな、触るな、やるな、は無理だろう。飢えたオオカミの羊の群れに放り込み、「食べるな!」というようなものだ。

 

もし本当に嫌なら、近代文明から離れた国や地域に行けばいいのだ。あるんだし。

それも嫌だというのなら、随分と身勝手な話である。

それならまだ楽しさを授かっている方が人間的だ。

ただ多くの人にとってゲームは本道ではない。

ゲームは娯楽である。

親の言うこともけして間違ってはいない。

それを心の片隅に置いておける余裕があってもいいだろう。

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